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金戒光明寺に何故会津藩士のお墓がある?
金戒光明寺
じつはこの寺の境内には会津藩殉難者墓地があります。
幕末1862年会津藩主松平容保が京都守護職に赴いたおり、この寺を本陣としました。 しかし鳥羽伏見の戦いで会津藩は敗れ、藩士350名が亡くなりこの本陣に葬られました。
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なぜ、この金戒光明寺が本陣に選ばれたのか? 家康が緊急の場合に備えて城塞の構えにつくり変えたからだと云われています。
なるほど散策してみると、宿坊も50程あり広大な敷地は高台にあり守りに最適な処だと想像できました。
なお、容保と近藤勇がこの寺で初めて会見し壬生浪士が守護職の配下になることで 容保から「新選組」の名を頂戴したそうです。そのため此の寺は「新選組発祥の地」とも言われています。
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